かえで
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目次

【第6号 2005年12月19日】
【第5号 2005年07月22日】
【第4号 2005年04月05日】
【第3号 2004年12月16日】
【第2号 2004年07月07日】
【創刊号 2004年04月07日】

日本平

 

【第6号 2005年12月19日】

 「戦々恐々」、と言うしかない。2005年を振り返って、どんな1年だったかと聞かれれば、私はこう答えるだろう。

 私たちはおびえてばかりだった。大型ハリケーン、福知山線の脱線事故、鳥インフルエンザ、数々のテロ。他人事でない災難を目の当たりにした。そして、家族が被害者に、あるいは加害者になるかもしれないという事実を突きられる悲惨な事件。この日常が突然途切れるのではという、不吉な予感がよぎる。

 おびえまいと踏ん張ってみても、メディアが与える過度の危機感に、嫌でも踊らされる。常に不安でいることに慣れてしまった私たち。力強く見える存在があらわれると、たやすく心を掴まれるようになってしまった。

 先の選挙の結果を見ても、それは明らかだ。そのことが新たな杞憂(きゆう)の始まりであると分かっていても、一時の高揚と安心感を得たいと思ってしまう。

 任せたい、頼りたいと言っているだけで何になるだろう。例えば学生であっても、社会に参加しようとした時から社会人なのである。意見を持って票を投じることも、いざという時のために備えることもできる。それをやるべきだ。自分のいるコミュニティを確認し、どんな知識を武器にすべきか知ったうえで、世界を見渡していなければならない。

 誰かにもらうのではなく、一人ひとりの行動がつくりだしたもの。それこそが、本当の安心だ。

(中村玲子)

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【第5号 2005年07月22日】

 七月に入り、少し暑さが和らいだものの、あの六月の暑さは異常だった。 特に山中湖一帯は熱かった。先日、英和大を含め全国57の大学チームが参加したサッカー大会が 山中湖畔で開催された。試合前に作戦を練っている姿や、声を掛け合いながらのハッスルプレーは、 見ている人を巻き込む力があった。

 しかしこんな彼らの勇姿を、学内でどれくらいの人が知っている だろうか。知らなければ、それでよしとしてしまう。昨日起きた出来事はすぐに忘れてしまう。気に なるのは異常な暑さだけ。兄弟による殺人事件や、同級生が起こした傷害事件、自分より若い人々に よる凶悪犯罪が増えている。

 事件が起きたことは知っている。けれど、それ以上は深く考えずに、 次のニュースが頭の中に入ってくる。知らなかったのではないけれど、知らないのと同じくらいに、 ニュースの中身を知らない。

 確かに次から次へと事件が起きていて、それについていちいち考えて はいられない。しかし何か起きても何も考えない。考えないことに慣れすぎてはいないだろうか。

  少しでも、実際に見たり聞いたりして、自分で考えることが大事だ。この異常な暑さやサッカーの 試合の見物は、私が自分で見て考えることができた、貴重な機会だったのかもしれない。

(石田恵理)

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【第4号 2005年04月05年】

 どうすることもできない「一瞬」がある。スマトラ島沖大地震による津波では、多くの死者・行方不明者がでた。

 水は街を一気に飲み込んでいった。人々の逃げ惑う姿や、どうすることもできずに水の中に取り残されているのを見ると心が痛む。 津波が押し寄せていることを知らせてあげたかった。

 「一瞬」のように過ぎてしまうときがある。それは辛いときや、楽しいときだろう。年が明けて、殺人事件のニュースが次から次へと 耳に入る。事件で人一人の命を奪うことの重さを考えさせられる一方で、いつしか事件があったことすら忘れ去られていく。それほど事件・事故が多い。 「一瞬」で人の命をどうして奪うことができるのか。深い悲しみが、被害者の心の中に「一生」続いているということを忘れないでほしい。

 過ぎ去った時は二度と戻ってこない。そのときだけよければと感じて過ぎてしまう「一瞬」がある。その重さは大人になるにつれて身に染みてくるだろう。

 しかし逆に考えてみよう。何もわからない若者だからこそ、非常に大きな可能性を秘めている。何だってできる。でも、あとから後悔だけはしたくない。

(石田恵理)

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【第3号 2005年12月16年】

 10月23日17時56分、新潟県中越地方にマグニチュード6・8の大地震が発生した。地震による被害が次々と報道され、 その後も震度6クラスの余震が続いた。9年前の悪夢がまた目に浮かぶようだ。

 95年1月17日。テレビには地獄絵図が映し出された。建物が倒れ、美しい町の大半が焼け野原に。火砕流に襲われたあの雲仙普賢岳のように、 壊滅状態に近い傷を受けた。

 中越地震では連続する恐怖と、余震が続き、夏の豪雨の後遺症が癒えぬまま追い討ちをかけられた格好だ。

 あれから1ヶ月半。仮設住宅が建てられ、人々は復興に向けて歩みだしてはいる。しかし、その爪跡は余りにも大きい。東海地震では、 いったいどれほどの被害がでるのだろうか。

 阪神・淡路大震災や中越地震のような惨状を招きかねない。唯一地震予知ができる地域だといわれているが、実際はどうだろうか?

 震災が起った時だけ防災意識を高めるのでは駄目、常に意識を持ち続ける必要があるだろう。なぜなら、自然災害はいつ来てもおかしくないのだから。

(鈴木明哲)

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【第2号 2004年07月07年】

 国会議員は国民の投票によって選出され、私たちの代弁者のはずだ。

 ところが先の国会はあきれるほどひどい不祥事やごまかし、約七割が反対している年金改革法案を強行採決してしまった。 しかも最新の出生率を伏せてまで通した、国民無視の暴走政治である。そんな小泉首相の政治をよしとするのか、待ったをかけるのか。 今こそわれわれが審判を下さなければならない。しかし、11日投票の参院選への関心が薄く、投票率の低下が気にかかる。 一票を投じたことで、何ができるのか。そんな無力感、政治不信もあるのだろう。

 しかし、投票しないことには政治は変わらない。一票の行使でしか現状を変えることはできないことを自覚しよう。 年金制度改革とイラクへ派遣、自衛隊の多国籍軍参加が当面の争点になるか、小泉政権3年の実績で厳しくチェックすることである。 そして投票場へいこう。われわれの意思を黙殺されるわけにはいかない。投票を棄権することは現状を追認してしまうことだ。票の重みを改めて感じたい。

(鈴木明哲)

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【創刊号 2005年04月07年】

 図書館地下書庫室。ほの暗い部屋の片隅、きちょうめんに整頓されている資料の中にそれ≠ヘ あった。薄汚れた茶封筒に『英和短大学生新聞』の文字。丁寧に取り出すとセピア色の紙面が現れた。 洗練された文面と的を射た骨太な主張が続き、その圧倒的な勢いに感嘆した。

 発行日は短大が創設された翌年、昭和42年(1967)2月20日。・70年安保に揺れる時代。 学生らは自らの存在感を誇示する気運が高まっていた。昭和47年の記事を紹介しよう。

 『教授会で 授業料五万円値上げを決め、臨時理事会を開きこの値上げを決定。しかし、この事実を知る学生はご く少数でしかない。授業料値上げとは学生を無視して成し得るものなのだろうか。(中略)一方的な 値上げに対し、納得のいく直接報告を要求する』とある。結局、値上げは決定された。しかし、彼らの 志は無駄ではない。

 それから37年後のこの春、静岡英和学院大学新聞と形を変え、再び姿を現す。 この大学を良くするも悪くするも学生自身。沈黙し現状から目をそらしていていいのだろうか。もう そういう時ではあるまい。目の前にある問題を見過ごさず、疑問点があれば意見を述べるべきだ。私 たちも堂々と問題を提起していく。大学側はそうした声を無視せず、真剣に受け止めてもらいたい。

(鈴木明哲)

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