論説
「疑い」の目を養おう
今年は報道の在り方が問われた年であった。
NHKの番組改変問題を巡り、それを報道した朝日新聞と対立したのが年明け早々。結果としては朝日新聞側が「取材の詰めが甘かった」とコメントを発表したが、9月には長野総局記者の取材メモ捏造が発覚し、同社の体質が問われる事態となった。一方、NHKも記者放火事件や、昨年から続く受信料未払い問題など、従来のマスコミ不信に追い討ちをかける不祥事が続発した。
4月に起きたJR福知山線の脱線事故では、メディアスクラム(集団的過熱取材)が問題となった。事故の被害者やその家族に報道陣が集団で押し寄せ、相手の心情を無視した執ような取材を行った。それを受けてか、11月に広島で起きた女児殺害事件では、被害者の父親が報道陣に対し「インタビューや撮影をご遠慮ください」といった内容の文書を配布した。
「ホリエモン」こと堀江貴文社長率いるライブドアの、ニッポン放送株大量取得も注目を浴びた。従来の体制に真っ向から対立した同社が訴えたのは、インターネットとテレビ・新聞の融合だった。楽天がTBSに経営統合をせまった問題もまた、同様であった。
さまざまな社会問題は、報道されてはじめて問題視される。だが、今年はその報道機関自体が社会問題となった出来事が、余りに多くありすぎた。こうした数々の問題を抱えるマスコミの報道を、われわれはすんなりと受け入れていいものなのだろうか。
与えられた情報を多角的に分析し、その裏側にある真実を見極めることが大事だ。それには日ごろからマスコミの報道に「疑い」の目を向けることで、何が問題なのかを見抜く力を養わなければならない。
これは学生生活でもいえることだ。学問研究の第一歩は問題意識を持ってはじめて踏み出せる。われわれ学生は、とかく講義や学術書に書かれていることを鵜呑みにしがちだ。だが、それで知識は身についても、それ以上のものは得られない。それはボランティアやアルバイトでも同じことである。疑い、考え、行動する。そのことを日常生活の中で実践していくべきだ。
新聞部もそのことを踏まえたうえで、日々の取材に全力で取り組んでいきたい。
(鈴木淳博)
【第6号 2005年12月19日】
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発言の重みをかみしめよう
6月中旬、グランシップで行われた県知事選立候補予定者による公開討論会に足を運んだ。現職の石川知事は公務で欠席したが、候補者である小沢武雄氏、吉田寿昭氏の二名が出席し、それぞれが持論を展開した。
本来ならば、このような討論会は県民が候補者を自分の目で「品定め」できる絶好の機会だ。しかしその割には人の入りも少なく、会場は空席が目立っていた。投開票日である7月24日まで1ヵ月余。県民の意識の表われだろうか、冷めた感は否めなかった。
今回の知事選の最大の争点は、やはり現在建設中の静岡空港であろう。本紙第三号でも特集を組んだ空港問題だが、7月5日に国土交通省から事業認定の告示があり、新たな局面を迎えている。
石川知事は、かねてから事業認定がおりるまで立候補を表明しない意向を示していた。それが6月初旬、支援団体らに後押しされる形で知事選出馬を決意、姿勢を一転させた。これは約束のほごではないかという意見にも、
自らの態度を「(発言した当時の)私の政治状況の判断の問題」として出馬を正当化した。
実は以前にも同じようなことがあった。静岡空港の是非を問う住民投票についてのことだ。01年の知事選のなかで、石川知事は「空港の是非は住民投票で決める」と訴えて、当選した。
しかしその後、住民投票条例案は県議会で否決され、住民投票は行われないことが決定した。
こうした空港をめぐる知事の対応は、真摯(しんし)な態度というにはやや物足りないのではないだろうか。
討論会で候補者らは、しきりに「県民の意見を尊重した政策」を訴えていた。それはあくまで、県民が県政に高い関心を持っていることが前提となっている。
だが現在の県民の意識を見ると、それが果たせるかどうかは疑問である。県政の現状を変えていくためには、それに対し発言をする、もしくは一票を投じることが必要であることを再認識すべきだ。
あるものごとについて考え、自分から発言していくことは当然のことであろう。重要なのは、その意見に責任を持つことである。それができなければ発言する資格もないといっていい。
そのことを政治家も、県民も、われわれ学生も考える必要がある。 (鈴木淳博)
【第5号 2005年07月22日】
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英和の歴史と伝統を創る
今年も大学・短大ともに新たな生徒が入ってくる。新入生はどんな気持ちで入学式をむかえ、期待に胸を躍らせているのだろうか。二年生は去年を、三年生はこの二年間を、四年生は過ぎ去った三年間をどう思い起こすだろうか。高校時代に比べ、時間的にも精神的にも自由がある大学生活、それだけに自分自身の心がけ次第でどうにでもなる。貪欲に知識を求め学習するもよし、サークル・ボランティア活動や国内外への旅行へいくのもいいだろう。また何もせず過ごすか。だがまず考えなければならないことは、なぜこの大学に入学し、今なにをこの大学へ求めているのか、ではないだろうか。
私たちが学生生活を送ることができる四年間という年月は長いようであるが、短い期間ではないだろうか。学内に閉じこもりがちになり、外の世界を知ることもなく活動していると、一歩外へ出れば通用しなくなる。すぐに社会という壁にぶつかることになるだろう。
大学が創立して四年目になる。少しづつであるが大学内の設備も増えてきたが、新たに学生が入ってくると賄い切れるのかという点がいくつかある。教室の問題や食事スペースの確保はこれからの課題となるだろう。また、学友会、サークル活動にあまり学生たちは、興味を示していないように感じられるし、活動する側も自分たちの行いを示そうという強い意欲が感じられない。いくつかのサークルの活躍は、新聞等のメディアを通じてご存知だと思うが、ごく少数。このままでは静岡英和学院大生とは何者だろう?ということになってしまわないだろうか。これまでに少なからず積み上げてきたものを上級生から下級生へ伝達し、毎年毎年雪だるまのように大きく発展させていく。これが大学生活の課題であると言えるだろう。
完成年度を迎えるこの四月からは、静岡英和学院大学の真価が問われる年になる。今私たちの行動は、社会や地域から大きな期待や希望の目が向けられている。それらに自分を高めるため、応えていく必要があるだろう。
新入生に限らず上級生も新しい仲間をつくり、いろんな事柄について議論し合う。そんな大学にしよう。おおいに結構。大学生活は、自分の可能性を引き出す絶好の場!新しいことをスタートさせるのは今しかない、チャンスを生かして可能性を広めよう。英和生が活発に活動し、歴史と伝統を創り上げよう。
(鈴木 明哲)
【第4号 2005年04月05日】
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新潟大震災からの教訓
新潟で大震災発生。十月二十三日のことである。本誌前号でも地震についての特集記事が掲載されたばかりだ。日常的に東海地震の話題で注目を浴びている私たちにとって、他人事とは思えない。
テレビをつけると、翌日の朝からレポーターたちは現場へ入り、報道を始めた。当初、食糧配給の少なさや遅さ、分配方法の問題点といった、行政の対応のまずさを暗に非難するような口調が目立っていた。
行政のすばやい対応、日ごろからの危機管理は、人々の安全を守るために重要だということは言うまでもない。では、被災者は何でもだれかにやってもらうのを待っていればよいのだろうか。
今回の被災地には、山間部に点在する村々が含まれていた。そこへたどり着くすべはたった一本の道。そのため、土砂崩れにより孤立する村が目立った。そんな中、村民がいち早く協力し迂回路を作った村があった。
周囲の状況を読み、持てる力を最大限利用し、自ら「安全」と「安心」を手に入れたのだ。過剰で過保護なサービスを享受しているわれわれにも、同じようにできるだろうか。
不測の事態とは、天災に限られたことではない。生活が大きく変化する要因は、どこにでも潜んでいる。病気、けが、事故や犯罪との遭遇、経済や治安の悪化…。変化をかぎ分け、状況を見極めて対処する力がものを言うだろう。それは、継続的な心掛けと訓練によってのみ作り上げられる。
(畔柳環)
【第3号 2004年12月16日】
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「お役所仕事」を反面教師に!
1.29。6月10日に厚生労働省が公表した03年の「合計特殊出生率」である。また過去最低を塗り変えた。この数字が、多方面にショックを与えたのは言うまでもない。しかし今回、例年になく論議を呼んでいる理由はほかにある。
6月5日に年金改革関連法が強行採決された。この法律を含めた、社会保障制度を設計する際の重要な前提、基礎データになるのが出生率である。
この法律は、見通しの甘さなど、内容的にいくつもの問題点がある。ここでは特に法案採決と出生率発表のタイミングのズレを問題視したい。出生率1.29は、厚生労働省内部では既に5月24日に把握されていた。しかし「公表に向けての資料作成のため」という理由で、厚労相に報告されたのは、報道と同じ日だったという。法律が成立した5日も後だ。意図的な発表延ばしではないか。官僚組織の悪しき面、横暴や過信が背後に見える。
「お役所仕事」という言い方がある。これで苦々しい思いをした人は少なくないだろう。たらい回し、対応の悪さ、認識の甘さ、一問一答、関連情報の案内不足…。官僚、公務員へのイメージや評価は、決していいとは言えない。
最近でこそ利用する側の視点に立った努力、工夫も見受けられる。しかし、いまだに古い慣習に縛られているのも事実だ。自分や組織のために、時間と労力を賭けた仕事を無駄にしたくない、という意図も見え隠れする。
すべての仕事には、その効果を享受する者がいる。本学には福祉や介護、心理学を学ぶ学生が多くいる。地域福祉学科では施設実習が課せられているが、学生は目的をどこに設定しているだろう。自分のため、上司・組織のため、それともサービスを受ける人のためなのか。それを見誤らない目を育てたいものである。
(畔柳環)
【第2号 2004年07月07日】
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モラトリアムを逆手に!
近ごろ目にするニュースに、ある共通点を見た。重大な判断を下さなければならない時、その場を「やり過ごす」ことに主眼を置く方法を選択している。急な変化、思いがけない事態、信じがたい現実に遭遇した直後の対処の仕方ひとつで、その後に与える影響は大きく異なる。
会長夫婦の自殺で謝意を表すこととなった、鳥インフルエンザ。浅田農産は、鶏の大量死を放置し、保健所への通報を怠った。目先の利益を選択したため、あまりにも大きな代償を払うこととなった典型的な例といえる。
三菱ふそうトラック・バスのリコール隠しもその一例だ。二〇〇二年に、大型トレーラーのタイヤが外れて母子三人を直撃、死傷させた事故だ。原因は「整備不良」と説明してきた。しかし、今年の一月、問題になった部品の「耐久実験」等が行われていなかったことが、明らかになった。
そして三月、車両部品に欠陥がある可能性を認めてリコールを表明、被害者遺族へ謝罪をした。事故から2年が経過していた。大きな組織から家庭に目を転じてみる。こどもが泣いたら「うるさい」と怒鳴り、言うことを聞かないと「しつけ」と称して暴力を振るう。虐待や児童連れ去りのニュースは後を絶たない。
私たち学生にとっても他人事ではない。学校という狭い世界の中では、不適切な対応をしても自分が困るだけだ。しかし、大学生ともなると、アルバイトや実習など、雇い主、受け入れ先、利用者との関係が生じてくる。誠実さを欠く行為が周囲に与える影響は大きい。大学時代はモラトリアムだと言われ、ある程度の失敗は大目に見られる。
それを逆手にとってみたらどうだろう。「ごめんなさい、ありがとうを言える」「うそをつかない」という、しつけの基本を再確認し実行しようではないか。
(畔柳 環)
【創刊号 2004年04月07日】
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