「語り継ごう―静岡の戦争を」
新聞部パネルディスカッション
楓祭初日の11月5日、新聞部はW301教室で、パネルディスカッション「語り継ごう〜静岡の戦争を」を開催。
戦争史跡研究者の枝村三郎さん、静岡大空襲を体験した小長谷實さん、学徒勤労動員に駆り出されていた鈴木孝子さんをパネリストとして迎え、当時の話を聞いた。
1時間半以上にわたり、それぞれの立場から当時の様子や戦争や平和への思いを語った。(司会・新聞部 鈴木淳博)
「今夜かな」と思っていた
|
小長谷實さん
|
― 空襲の時の様子を教えてください。
小長谷「静岡駅で勤務していて、空襲のあった6月19日は当直でした。なんとなく『いよいよ今夜かな』と思っていた。爆弾が碁盤の目のように落ち、跳ね上がった砂利が背中に当たった。T字型防空壕へ逃げ込んだら、真ん中の一番安全な所に軍人がいた。ずるいと思った」
鈴木「私は沼津の工場へ学徒動員に行かされていました。そこにはたくさんの朝鮮人がいて、空襲の危険が迫って私たちが逃げることになった後も、まだ働いているようだった。町は、方向が分からないほどの焼け野原。私以外の家族は、集合場所だけ決めて、子どもから先に逃がしていったそうです。父は皆と落ち合うまでの道々、焼けたトタンをはがしては子どもの死体を抱いてみて、我が子かどうか確かめたという。最近になって初めてこの話を聞き、父の優しさを感じました。空襲で6000人亡くなったそうですが、1600人ほどしか名前も分からなかったといいます。清水では、3000度も出る焼夷弾が使われたそうです」
枝村「B29は1機につき5〜6トンの爆弾を積んで飛来、200件くらいの建物を焼きました。B29の総数は1000機、1度の出撃で100〜200機飛んだ。浜松は余った爆弾を落としていく「ゴミ捨て場」と言われていた。米軍は、ファットマン(パンプキン)といわれる、長崎に落としたものと同型の爆弾を、全国49カ所に落とし、原爆投下の練習をしていた。原爆の投下は、広島・小倉・長崎の順に優先されていた。広島と長崎がやられて、第三発目は小倉か京都にと言われていた。もっと戦争が続いていたら、全国が沖縄のような焦土になっていたでしょう」
― 軍国主義についてはどう感じていましたか。
小長谷「当時は学校も軍国一色で、他の事を考えるということが誰にもできなかった。少年たちはみんな『軍人になり陛下のために死ぬ』と、軽々しくも信じていた。私も、少年航空兵になった友人を『かっこいい』と感じ、自分は戦車兵に志願しようと考えました。しかし長男だったので親に止められて‥その時は、そんなことを言う父をけしからん、友人達にも顔向けできんなどと、真剣に思った。あの頃は『言論の自由がない』という考え自体がなく、すべての軍国主義の欠点については、後から気が付いた」
靴も学級に一足しかなかった
|
鈴木孝子さん
|
― 女性の立場は、どんなものだったのですか。
鈴木「子ども同士のケンカですら、女が男に手を上げることは許されませんでした。父が母を殴ったりしても、なんとも思わなかった。母は戦争中『女ばかり産んで申し訳ない』といっていましたが、後になって『これで良かった』と。学校では『桜の花は、勇ましく突っ込んで潔く死ぬ兵隊の姿だ』と聞かされ、兵隊をたたえる歌ばかり教えられました。物資不足で、靴も学級に一足しかなかった。それでも、分け合う気持ちがあって、みんなで助け合っていました」
日本兵の半分は餓死
|
枝村三郎さん
|
枝村「県内出身の俳優、三國連太郎が兵役から逃げた時、居場所を密告したのは実の母だったそうだ。母からすれば、それが息子のためだと信じていた。そういう時代でした。日本の物資輸送はことごとくお粗末で、暗号を解読していたアメリカ軍によって、物資を乗せた巨大な船はどんどん沈められてしまいました。3万人が死に、6000人は死体も揚がらなかった。日本兵の半分は餓死。そもそも日本軍には物資を輸送するという考えがなく、現地調達が前提だった。裏金の源として、中国の阿片があった。銃はサンパチ銃という、明治38年の日露戦争で使われたものを使っていた。アメリカ軍が自動小銃なのに対し、サンパチ銃は一発撃つごとに薬きょうを換えなくてはいけなかった」
― 終戦の時は、どういう気持ちでしたか。
鈴木「終戦の日に、放送で天皇の声をはじめて聞いた。私には人の声とは思えなかった。私を裏切った声だと思いました」
小長谷「ゲートルをやめたのが変な感じでした。それから戦争中は、道で職場の上司と会うとその場で敬礼しなければいけなかったのが、それもなくなった。突然のことで、みんな心の準備がなかったから、戦後はガチャガチャになってしまって、荒れて人道もない世間になってしまった。自分自身、『敗戦』という言葉を受け止めるには、10年かかった。もし核兵器を、日本が先に作り上げていたなら、全国民でバンザイをしていたんではないかと思う」
(構成・中村玲子) 【第6号 05年12月19日】
05年度楓祭トップに戻る/
特集記事一覧に戻る/
トップに戻る
|