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著者紹介

静岡県に戦争があった

 静岡県の戦争について研究している、藤枝市在住の元高校社会科教諭、枝村三郎さん(66)がこのほど「静岡県に戦争があった」と題する本を自費出版し、注目を集めている。「戦争で最も犠牲になったのは、子どもたちだった」と語る枝村さんに話を聞いた。

「疎開した子どもたちは皆、ホームシックにかかり毎晩泣いていた」

 静岡は全国で4番目に学童疎開の生徒を受け入れた数が多い県だった。東京からは2万7千人の生徒が、寺や伊豆の温泉場に疎開してきた。中には逃亡を図って東京へ帰ろうとした生徒もいた。戦況が厳しくなると東北地方へ再疎開する生徒も多かったという。
 
 小学校卒業以上の年齢の子どもは工場に動員され、働かされた。県東部では海軍工廠で無線機、中部では三菱で飛行機のエンジン、西部では楽器工場でのプロペラ作りなどが行われた。「特にかわいそうだったのは、愛知県の豊川工場まで出向いた生徒だ。彼らは機関銃など、直接殺りくに使われた武器などを作らされていた。その後、その工場は大空襲を受け、大勢の死亡者を出した」。

 農村部の貧しい少年らは、土地を求めて満州へ旅立って行った。彼らは義勇軍と呼ばれ、中学卒業程度の年齢層の若者が多く参加した。「静岡県は教師が熱心に移住を勧めていた。特に藤枝、富士などの子が多かったようだ」と枝村さん。ところが希望を持って出発した少年らを待っていたのは、過酷な労働と飢えだった。隊の中でのリンチや、となりの隊との対立など、暴力が支配した劣悪な環境であった。さらにソ連軍が参戦すると、日本軍は満州防衛を放棄し、多くの義勇軍はシベリア抑留となったのである。

 最後に枝村さんは、研究を通して静岡県民に伝えたいことを次のように結んだ。

「戦争は歴史の教科書だけが語るものではない。その時代の底辺を生きた庶民の視点で見ていくことが重要。この本は20年以上にわたる研究の集大成。この静岡の地元で何が起きたのかを記したうえで、平和を訴えたかった」

●本の問い合わせは、枝村さん方=054(638)2871まで。

用語解説

義勇軍

 義勇軍は1938年から45年の終戦の年まで行われ、重要国策のひとつとして、14歳から16歳の少年約8万8千人が満州(中国東北部)開拓に行った。

 設立の狙いは、当時、建国日浅い満州一帯に広がる未墾の平地に青少年を送出し、将来大規模経営の農業者を育成、豊かな農村を築き上げ、日満一体、民族協和の実をあげることにあった。 茨城県の内原義勇軍訓練所で3ヵ月の農事、軍事訓練を行い、義勇隊開拓団へと移る。見知らぬ土地に夢を抱き、シベリアと満州の国境近くに配置された少年たち。しかしそこで見た現実は、果てしなく広い大地と貧しい食事、冬は氷点下40度の極寒の地だった。現地の中国人に対して日本軍の行った行為は、満州国を守るといったものではなく、非情極まりない強奪・強姦・暴力などであった。

 45年の敗戦時には、日本軍の武装解除とともにシベリア抑留や現地民の報復襲撃で、約2万2千人のうち、約4千人が死亡したといわれる。

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