特別インタビュー
「地のさざめごと」を読み解く
藤本治静大名誉教授
昭和41年、旧制静岡高校出身の戦没者たちの手記を集めた遺稿集「地のさざめごと」が発行された。手記には若くして戦争により命を落とした者たちの、戦時下での生活や、戦場へおもむく決意や迷いが生々しくつづられている。彼らは一体何を考えていたのか。それを知ることは、私たちが戦争について考えていく上で、大きなヒントとなるだろう。
そこで当時、手記の編集にあたった藤本治さん(静岡大学名誉教授)をインタビューした。
―なぜ遺稿集を編集しようと思ったのですか。
藤本 旧制静高の後進である静岡大学が現在の場所に移転すると決まった時、倉庫に静高関係戦没者の遺影がほこりをかぶって放置されていることを知った。その時に、これでは本当の意味で慰霊とはいえないと思い遺族に手紙を出して、手記を提供してもらった。しかし実際に収録できたのは10分の1にも満たない。
―戦没者たちはどんな思いだったのでしょうか。
藤本 手記は学生時代、軍隊入隊時、戦場に行った時に書かれたものに分けられる。学生時代は軍国主義批判も含め、自由に書かれている。旧制静高には細々ではあるが反戦の思想、リベラルな気風があったといえる。軍隊入隊時に書かれた手記・手紙は、検閲があるため本心のままに書くことができなかったようだ。母親と友人にあてた手紙を見ると、それぞれまったく違った思いが書かれていることもあった。それをどう読み解くかに苦労したが、やはり母親を思う気持ちが一番であったのではないかと思う。
―編集を通して訴えたかったことは何ですか。
藤本 歴史をはっきりさせることの重要性。手記の中には中国人を射殺する場面や、従軍慰安婦に触れた場面がある。その部分を載せることに遺族の反対があった。しかし事実を事実としてさらけ出さなければ、反戦平和の戦いがもろいものになってしまうと思い、遺族を説得して載せることにした。
―特に思い入れのある箇所はありますか。
藤本 長崎医大在学中に原爆で死亡した岐部謙治さんの記した詩が、気に入っている(紙面中央に記載)。「敵を知らず」ということが、戦争を反対するうえで最も大切なものだからだ。
―彼らのような戦没者たちを英霊として祀ることについては、どうお考えでしょうか。
藤本 靖国神社のように戦没者たちを囲いの中に祀ることが、果たして遺族の本意なのだろうか。いつくしんだ者は、自分の近くに弔いたいと思うのが普通ではないか。現に「靖国に祀られるのは嫌だ」と訴えている遺族もいる。
―学生に考えてほしいことは何ですか。
藤本 戦争は突然起こるものではない。徐々に自分の自由が奪われていることに気づかなければならない。極限状態になっても人間らしさを忘れない強い心を持つことが、平和を実現することにつながる。
靖国神社
1869(明治2)年、東京九段坂上に、明治新政府によって戊辰戦争での官軍の戦死者らを弔うために建てられた神社。当初は東京招魂社という名で、10年後に靖国神社と改称された。「靖国」とは「国を安(靖)らかにする」という意味。
靖国神社の「神」は、戦死や戦傷病死した軍人・軍属と、それに準じる人々。A級戦犯や沖縄戦で散ったひめゆり部隊の女子生徒も含まれる。ただ、西南戦争の西郷隆盛のような「賊軍」や、空襲で死んだ民間人らは対象外だ。
管轄は陸・海軍だが、管理は主に陸軍省があたった。国家的な功績のあった人を祭る神とすることを特色とした。その後、53年以降国内の戦乱、また対外戦争である日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、太平洋戦争などの戦没者を当社に祀り、現在246万人。
国家との関係は、戦後は全面的に断たれたが、「靖国神社問題」として国家護持、首相の公式参拝、A級戦犯合祀問題など、神社の歴史的性格と国家・政府との関係をどう扱うか、未解決のままである。
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